1.ある表彰式の出来事
アイルランドに数多く見られる教会の中でも、シャノンの丘に堂々と威厳を誇る12世紀建立の聖パトリック教会の存在は、他と別格の感が有る。ケルト文化特有の直線的建築美もさることながら、光線によって七色に変化する純白の大理石の外観が、えも言えず神秘的なのである。1913年5月、この町に生れたエリック・フィディアンは、類稀な美声が認められて五歳から聖歌隊に迎えられると、七歳にして早くもリード・ソプラノの席が与えられた。この早熟記録は、こんにち現在まで破られていない。
教会の資料室に保存される『The Datebook of Choir』の1921年版によると、少年エリックは27曲の賛美歌でリード・ソプラノをつとめたが、とりわけ誰もが絶賛したのが年に四回だけ彼が歌う「アベェ・マリア」だった。澄み切った天与の美声は嫋々と流れて聞く人の魂を揺さぶり、あまりの素晴らしさに感極まって、
「あれこそが天使のハミングに違いない」
そう呟いて、誰もが目頭をぬぐったと記録にある。長じて彼がアマゴルフ界で頭角を現したとき、「聖歌隊のエリック」と呼ばれたのも当然すぎる話である。
背はそれほど高くなかったが、骨格たくましい金髪の美少年にもう一つの才能が宿ると見抜いたのがジョン・アルゴン司祭だった。サッカー、ラグビー、何をやらせても敏捷かつ正確、加えて度胸も申し分ないのだ。全英アマ選手権に出場したこともある司祭は、キングストンのコースに付帯する練習グリーンに彼を伴って、毎週日曜日の夕方、ここでパッティングの勝負をしようと誘った。
「グリーン上では誰もが互角。想像力と決断力、この二つさえあれば女子供でも巨人を雑作なく倒すことが出来る。ここがゴルフのおもしろいところ、腕力の通用しない世界には汲めども尽きぬ知的興奮というものがある。さあ、来週からグリーン上の18ホール、真剣勝負を始めるぞ」
パターを手渡しながら、司祭は二点だけ注意を与えた。
「あれこれ試した上で、一時間立っていても疲れない姿勢を見つけること。次に、両手を合わせてぶらぶら振ってみる。スムーズに動く場所がヒッティング・ポイントだ。そこでストロークしなさい」
これぞパッティングの奥義、十歳の少年はゴルフの究極からゲームに足を踏み入れたことになる。1年足らずして彼は互角の闘いに汗を流すまでに成長した。パットがうまい者はゴルフに悩みを持たないと、スコットランドの古諺は言うが、果たして1932年の全英アマ・ストローク選手権に出場した彼は、二日目に「68」の好スコアを出して首位に立つと、三日目も「69」でホールアウトして4打差のリード、そのまま優勝すると思われた最終日に、なんと「77」も叩いてバリー・ドレーンに1打抜かれてしまった。しかし、デビュー戦としては申し分ない成績。無口だが微笑を絶やさず、誰に対してもやさしい美男子に注目が集まり、二つの雑誌が聖歌隊時代の写真入りで紹介するほどの人気ぶりだった。
翌1933年のアイリッシュ・アマ選手権は、ロイヤル・カウンティダウンに選り抜きの42選手が集まり、一日36ホールの凄絶なマッチプレーによって行われた。この試合こそ、エリック・フィディアンの名を球史に留める奇妙な舞台となるものだった。
決勝戦に進出した彼は、ショット、パット共に絶好調だった。クリスティ・オコーナー、ハリー・ブラッドショー、あるいはジミー・キンセラ、近くにジョー・カー、イーモン・ダーシーといったアイルランドの名手たちと同様、彼のスウィングもひどく個性的であり、小さなトップから左腕を地面に叩きつけるように振って、フィニッシュには無頓着。周囲が「いつ打ったの?」と、呆れるほどの早打ちだった。
「なぜ、アイルランドのゴルファーは揃って早打ちなのでしょうか?」
記者に尋ねられて、彼はこう答えている。
「私たちは先輩から、次のように教えられてきた。もし時間をかけてナイスショットが約束されるなら、1ランウドに十日かけても待とう。しかし、打ってみなければわからないのがゴルフ、あっさり打ったミスは、あっさり忘れることができる」
午前の7番ホールまで、彼はグラスゴーから来た強豪ジャック・マクリーンとイーブンだった。その7番が135ヤードのショートホール、9番アイアンで打たれた彼のボールは高く舞い上がってピンと重なり、落下後ワンパウンドして「スポッ」とカップに吸い込まれた。まさに劇的なホールインワン、これで1アップだ。
午後の14番、205ヤード、パー3では、折から向かい風が強いこともあって、ティショットにはドライバーが使用された。ボールは再びピンと重なり、落下点から2メートルほど転がって、またもや「コトン」とカップに消えた。この日2度目のホールインワンとは!
さらに16番、415ヤード、パー4では、左ラフからスプーンで打ったボールが直接カップに入るイーグルまて飛び出して、これでもかの奇跡の連続に五千人のギャラーも大興奮。ところが信じられないことに、終わってみるとジャック・マクリーンが勝っていたのだ。ここがマッチプレーの恐ろしさ、1日2度のホールインワンも、36ホールの中では2アップにしかならない。「実らなかったスーパーショット」
新聞は悲劇的に書き立てたが、例によって彼は微笑するだけ、試合後のコメントも簡潔だった。「一生懸命にやりました。だから悔いはない。マクリーン選手から多くを学びました」
表彰式は、ロイヤル・カウンティダウンの18番グリーン横で行われました。カップの授与に先立って、競技委員長のトーマス・ベニガン卿から、試合直前、出場不能となった一人の選手が紹介された。
「彼の名はフランク・レーン。エディンバラに留学中ゴルフを覚えて祖国ドイツに戻っていたが、今回の予選会ではメダリストの栄誉に輝き、一時帰国後、本選に向けて出発する直前にスパイ容疑で逮捕された。ヒトラーの軍縮会議と国際連盟からの脱退に反対したためだというが、真のゴルファーは平和を愛するもの、彼の行動に心からの敬意と拍手を送りたい」
委員長の話に、一番驚いたのがエリックだった。彼は去年のスコティッシュ・アマでドイツ青年と戦い、ホテルのバーでは偉大な音楽家たちについて大いに語り、その見識に脱帽したばかりだった。
優勝したマクリーンに次いで、彼には準優勝の盾が手渡された。どうしても聞いておかなければならない。祝福の手を握ったまま、彼は競技委員長に尋ねた。
「彼はどうなりますか?」
「スパイ容疑は重罪。憂慮すべき事態だと思う」
自分の席に戻って、正面に視線を据えると、不意に彼は朗々と「アヴェ・マリア」を歌い始めた。いま友人に出来ることをする、一条の涙を流しながら、彼は透明な声で歌い続けた。
2.ハンディ「15」の奇跡
コース一面、ダイヤが飛び散ったように朝露が煌き、足元では蜜蜂が軽快な羽音を立てている。風もなく、これ以上望みようもないものがあったかと、あとになって記者に尋ねられたが、何もなかった。ただ、透明な空気と美しいコースの佇まいにうっとりしながら、きょうはのびのびプレーしようと心がけただけ。とにかく素晴らしい朝だった」
1962年10月10日、カリフォルニア州に住む内科医、ジョセフ・ボイドストン博士は、二人の友人と連れ立って近くのベイカースフィールドGCの1番ティから勇躍出発した。博士のハンディは15、ゴルフ暦25年、いまだホールインワンの経験なし、心から偉大なるゲームを愛する典型的なアベレージゴルファーの一人だった。
「1番がボキーの5、2番もボキーの5、いつも通りの展開だが、数日前に買ったばかりのアイアンがことのほか手に馴染んで、調子は悪くなかった。次ぎに迎えた3番ホール、155ヤード、パー3のレイアウトは、グリーン手前の左右に深いバンカーがあって、旗の位置はかなり奥、160ヤード以上打たなければ届かないと思った私は、4番アイアンを手にした」
打たれた白球は、紺碧の青空に舞い上がって旗竿と重なり、小さく弾んでカップに吸い込まれた。ショートホールに立つ機会を「1回」と計算して、われらがホールインワンを達成する確立は「4万3千回」に1回とされる。もちろん、博士は欣喜雀躍、仲間ら抱きしめられて大満足だった。
ところが、喜びの余韻もさめやらぬ4番ホール、140ヤード、パー3では、6番アイアンで打ったボールがバンカーの傾斜に当って右にキック、カップに走り寄って再びカップに沈んだのである。このコース全長が5720ヤード、パー68と短く、アウトとインにそれぞれ三つのショートホールがあった。それにしても連続の快挙、興奮した博士は、「地面から足が1メートルも浮いたような気分だった」
このように語っている。しかし、ゴルフの長い歴史の中でのニ連続ホールインワン達成記録は推定50件、お話はこれから始まる。
9番ホールもまた、152ヤードのパー3だった。連続ホールインワンの祝賀会をいつ開催するか、大いに話題が弾む中で博士は5番アイアンを振り上げ、振り下ろした。ボールはハーフトップ気味に飛び出し花道で転がり、まさに奇跡の再現、旗竿の根元に吸い込まれていった。
「そのときの気持ちを、どう表現すればいいのだろう。私はティグラウンドにへたり込んで、夢なら醒めないでほしいと念じていた。私以上に仰天したのが仲間たち、全員がひっくり返って、カメのように手足をバタバタさせる騒ぎだった」
それから十四年後の1976年6月9日、アリゾナ州バディバーグの住民から「心の父」と慕われるハロルド・スナイダー牧師は、自分の教区に住む3人のゴルファーとバーラGCのアイアンウッドコースを歩いていた。
「もし、奇跡の前兆があるならば、その朝目覚めたとき、庭の枝に白と赤と黒、それぞれ色の異なった三羽の鳥が仲良く止まっている光景を目撃して、思わず目を疑ったものです。コースに来てゴルフ仲間に語って聞かせたところ、宗教画の中に描かれることはあっても、色違いが三羽とは考えられない出来事、寝惚けていたのだろうと笑われた」
当時62歳のスナイダー牧師は、8番の210ヤードもあるタフなショートホールでドライバーを使用した。ボールはスライスしてグリーンの手前に落ちると、そのままピンに近づいて「ガシャ!」派手な音を立ててカップに沈んだ。ハンディ15の牧師もまた、生涯で初めてのホールインワンだった。
13番、155ヤード、パー3では、5番アイアンによって打たれたボールがピンに一直線、またもや「ガシャ!」。続く14番、130ヤード、パー3では7番アイアンによる打球が美しく放物線を描き再びピンに一直線、なんと3回目のホールインワンが達成された。
「ゴルフを始めて30年というもの、ドラマチックな出来事と一切無縁だった私が、日に3度もホールインワンをやるとは、神様もいたずらの度が過ぎると思いました。もちろん、何が何やら頭がボーッとして歓喜も言葉にならず、ただ意味もなく喚いたり、歓声を上げたり、3度目のときには失神寸前でした。スーパーショットが続いただけに、ベストスコアの『78』も達成出来て、その日はわが生涯最良のゲームでした」
これまでのところ、日に3度の奇跡物語は以上の如し。だが、ゴルフに限って「空前絶後」の四文字も滅多には使えない。意外性に満ちたこのゲームでは、いつ何が起きても不思議はないからである。
1995年7月4日、難コースが多いアイルランドの中でも、とくに頭脳的にプレーが要求されると評判のロックグリーンGCに、3人のアメリカ人旅行客がやって来た。全長6501ヤード、パー71。このコースではショットが10ヤードほどブレただけでボールの七割が行方不明になると言われる。それほど各ホールとも濃密なラフにセパレートされ、名手トム・ワトソンにして、1ラウンド3個のロストボールに泣いたものである。彼らは宿泊先のホテルから紹介されて、憧れのコースにやって来た。
その中の一人、ボブ・ニコルスのハンディ15、温和な物腰に由来して仲間から「小児医」と呼ばれていたが、本業は出版社の重役だった。彼もまた二十年のゴルフ人生の中でホールインワンの経験がなかった。
「あれは他人が達成するもの、自分は生涯無縁だと信じてきました。だからショートホールではオンさせることだけ考えて、乗れば幸い、それで満足するゴルファーでったのです。ところが何やら得体の知れないモノが乗り移ったのでしょうか、途方もない出来事がわが身に起こったのです」
3番、132ヤード、パー3のティショットでは9番アイアンが、8番、155ヤード、パー3では6番アイアンが起用された。
「3番のショットがカップに吸い込まれたときは、ゲームをやめてクラブハウスに走り、アメリカの家内に電話をかけようかと思いました。8番では全身が総毛立って、ふるえが止まりませんでした。景色も目に入らず、友人から手荒く祝福されても上の空、酩酊状態でやって来た17番、366ヤードの右ドッグレッグのパー4では、夢中で振ったボールが会心の当り、こんもりしたセフの彼方へと飛び去ったのです」
全員、グリーンまで辿り着いたが、彼のボールだけ見当らない。五分間ほど探した最後に、仲間の一人が何気なくカップを覗き込んで絶叫した。
「ヒャーッ、ボールが一個、中に沈んでいるぞ!」
ゴルフは期待と絶望のゲームだが、ときとして途方もない奇跡が起こらないでもない。それにしても1ラウンド3回のホールインワン達成者が、揃ってハンディ15とは、何やら不気味な話である。
3.マギーへの贈り物
1902年からイギリスの首相をつとめたアーザー・バルファオ卿は、大の勲章嫌い、後世に残る名言を残した。
「真に偉大な人物ほど、褒章に対してアレルギーが働く」
そもそも公僕が叙勲されること自体うさん臭い行為だと叫び、下院に対して役人への褒章を禁止する動議を提出したこともある。わが国でも春秋に行われる恒例の叙勲の中に、おびただしい数の役人がひしめいて見苦しい限り、いまや公僕の定義は消滅した感がある。拝見するに、叙勲漁りの人物の顔、どこかゴキブリに似ている。
1916年にテキサスで生れたマーガレット(マギー)・ウォルドランをひと言で紹介するならば、名もなき市井(しせい)の勤勉な女性である。1939年、ジャーナリストにあこがれた彼女は中堅出版社の「パリングス・プレス」に入社する。3年目、ようやく仕事に慣れた彼女に一つの企画が持ちこまれた。
「しばらくの間、パイロン・ネルソン氏が執筆中のレッスン書を手伝ってくれないか」
編集長の話を聞いて、彼女は躍り上がった。何しろテキサスはスコットランドに次ぐゴルフ天国、アメリカのゴルフ史を築いたベン・ホーガン、サム・スニード、バイロン・ネルソンが健在であり、多くのゴルファーが彼らに教えを乞うために訪れて大にぎわい、1937年ごろには「ゴルフの梁山泊」の感さえあった。
なかでも、バイロン・ネルソンの凄さは別格だった。血友病に似た奇病のため早くに引退したが、全盛時にはホーガン、スニードといえども足元に及ばず、1937年のマスターズで劇的な逆転優勝を遂げてトップの仲間入りを果たすと、1945年には3月8日の試合から8月4日に終わったカナディアン・オープンまで、なんとUSツアー11連勝の信じられない快記録まで樹立した。しかもこの年、120ラウンドの平均ストロークが「68.33」、18ホールのベストスコアが「62」、72ホールのベストスコアが「259」、113試合連続出場して予選落ちなし、気が遠くなるような記録も残している。
「初めてネルソン家を訪ねたときの光景は、いまでも忘れません。あの伝説の人が、エプロン姿で台所に立ってオムレツを焼いていたのです。それから一緒に朝メシを食おうといって、私のパンにバターまで塗ってくれたのです。率直で飾り気のない人柄にびっくり、私はたちまちファンになりました。信じられないことに、それから1ヶ月後、仕事の合間にゴルフのレッスンまで受けるようになったのです」
1947年に刊行された『バイロン・ネルソンの近代ゴルフ』は、彼女の編集能力に負うところが大きかった。
「ゴルフをやるからには、アマチュア競技に出場しなさい。仲間内の馴れ合いゴルフでは絶対に上達しないと彼に言われて、テキサス州女子アマ選手権に出場したのが1967年のこと。それから毎年のように出場しました。でも1967年の7位が最高、本当にゴルフはむずかしいゲームですが、やればやるほどおもしろさに溺れて人生が充実したものになりました」
ご主人のピートと出会ったのも、テキサスのゴルフ場だった。彼は有能な弁護士として信望が厚く、また当時ハンディ3のトップアマとしても界隈に知られた存在だった。
出版社勤務の傍ら、マギーにはな成すべき事があった。1946年ごろのテキサスには、孤独な老人のためのホームヘルパー制度が存在しなかった。この問題に関する書籍を編纂したのが縁、心やさしい彼女には放置出来なかった。いくつかの婦人団体と話し合い、ボランティアを募り、企業に基金の拠出も願い歩いた。さらには上院、下院議員も動かして州当局に働きかけ、1960年までにホームヘルパーの組織を作り上げると同時に、州予算を当初の3倍まで引き上げることにも成功した。病気、孤独、貧困に喘ぐ人たちは、彼女の努力によって派遣されるヘルパーに「マギーの使者」なる愛称を献上した。勲章とは無縁だが、彼女が果たした功績には計り知れないものがある。
歳月が流れて、やがて引退したウェルドラン夫婦は以前からフロリダに求めてあった小さい家で第二の人生を過ごすことになった。フロリダもテキサスに負けないゴルフ天国、二人にとっての理想郷のはずが、1978年、疾患が引き金となって彼女は不意に失明する悲劇に見舞われる。「もうゴルフが出来ない!生れて初めて私は声を上げて泣きました。すると夫が言ったのです。バイロン・ネルソン直伝の秘密練習を忘れたのかね? 次の瞬間、ハッとしました。ある日の練習でバイロンが秘密めかして呟いた言葉を思い出したのです。自分のスウェングをチェックするのに最高の方法は、両目を閉じて振ってみることだと。そうだと思いました。私は闇の中でひと筋の光明と出会い、夫の助けを借りて再び好きなゴルフが始められたのです」
1990年3月18日、信じられないドラマが発生した。家の近くにあるフロリダ州アメリアアイランドのロングポイントGCに出掛けた夫婦は、燦々と降り注ぐ太陽を浴びながら、いつに変わらぬプレーに熱中していた。7番レディース・ティの上にボールを乗せてから74歳の彼女に7番アイアンを手渡した。それからアドレスの最終チェックを済ませると、剽軽(ひょうきん)な口調で言った。「発射準備よし!」
放たれた白球は紺碧の空に舞い上がり、旗竿と重なって落下したあと、小さく弾んでカップの中に吸い込まれた。
「いつも彼は、実況アナウンサーのように方向と弾道を逐一報告してくれますが、そのときに限って、よし! よし! と叫ぶだけ。次にウワァーと叫んで、いきなり私を抱きしめたのです。ただならぬ気配で私にも何が起きたのかわかりました」
奇跡はさらに続く。その翌日、興奮冷めやらぬ夫婦が同じコースに到着すると、待ち構えていた友人にコース関係者まで加わってキスと抱擁でもみくちゃだった。ようやくスタートしたあとの12番、105ヤードまでやってくると、追い風だったこともあって彼女は再び7番アイアンを手にした。目標にフェースを合わせながら、夫のピートが歌うように言った。
「夢よ、もい一度。さてホールインワンのための準備よし!」
次に演じられた光景は、まるでビデオの再現だった。舞い上がった白球はピンの手前に落下したあと、再び見えない糸にたぐり寄せられたのである。二日連続、まさかのホールインワンが誕生したのだ。
「何か叫びながら、いきなり彼が抱きついた勢いで私たちはティグランドに倒れてしまったのです。本当に何が起きたのか、私にはわからなかった。ようやくホールインワン達成だと知ったとき、これは彼得意の冗談どた思いました」
冗談どころか、連続の快挙はギネスブックにも記録された。偉大なる彼女は自らのハンディを乗り越え、全盲の身でありながら1ラウンド平均「100」のスコアを保って75年の高潔な人生をまっとうした。快挙は、天が与えたもうた勲章だったに違いない。
4.「一千八百九十兆分の一」
寿命が延びるにつれて、ゴルフの記録にも異変が生じるようになった。例えば1985年、元銀行員のオットー・ブッチャーがスペインのラ・マンガの12番、130ヤードでホールインワンを達成したとき、99歳と9ヶ月だった。本人曰く、
「出来れば3ヶ月後、満100歳の記念すべき誕生日まで、こんなに気持ちのいいことは取っておきたかったね」
一方、1986年にはアール・ロス婦人が、フロリダのパームビーチにあるエバーグレイデスCCの17番、110ヤードを一発で仕留めたとき、満95歳だった。夫人は1日おきに歩いて9ホール回るのが唯一の趣味。ゴルフは歩き始めてから歩ける限り心から楽しめるゲームだと、矍鑠(かくしゃく)たるご両人は証明してみせた。
一つのホールインワンには、必ず一つのドラマがある。たとえば1995年、イギリスのコッツワルドGCでプレー中のジョン・レミントンは、7番、175ヤードのショートホールを5番アイアンで攻めることにした。ボールはかなり左に飛び出して金網近くの排水口に飛び込んで次の瞬間、右に大きく跳ねてバンカーに飛び込み、駆け上がってレーキにぶつかったあとグリーンに落下して、まず先行組のA氏のボールに命中、次にB氏のボールにも命中、なんと4回もジグザグ行進の最後に音もなくカップに吸い込まれていった。
さて、ジョージ・シフォードが、ニューヨーク州のロチェスターにあるオークヒル・カントリークラブにやって来たのは、試合が始まる二日前、即ち1989年6月13日のことである。彼は全米ゴルフ協会の理事として、15日から始まる全米オープンの競技委員をつとめることになっていた。
いよいよ競技が開始されて、彼は一刻も早く熱戦の模様が見たいと思った。ところが運の悪いことに大会本部付、テレビのモニターからゲームの進行を監視する役がふり当てられた。
「正直なところ、テレビで見るくらいなら家にいても同じこと、心底ついてないと思った。最近では選手に帯同する役員の数を減らす傾向にある。そこで私は大会本部のモニターの前に座って、最後の選手がホールアウトするまで退屈な時間をうっちゃるしかなかった。
二日目、私は協議委員長にせめて半日ぐらい、誰かと代えてもらえないかと申し出た。ここまで来て全米オープンが見られないなんて、拷問に等しいとも言った。ようやく私の懇願が受け入れられて、午前中だけ参観が許されたあとが不思議、まるで見えない糸にたぐり寄せられるように、足がひとりでに6番のグリーン方向に歩き出して行ったのだ」
トーナメント観戦にも個人の好みがあって、プロの豪快なドライバーに魅せられて、決まってロングホールのティグラウンドに陣取る人もいれば、グリーン上の芸術だけに興味のある人もいる。たとえばゴルフ観戦が唯一の趣味だった文豪、J・R・キップリングも、全英オープン開催コースに椅子を持ち込み、難度の高いグリーンの近くに陣取って離れなかったほどのパッティング・マニアとして知られた。ジョージ・シフォードの場合、グリーンを狙って打つセカンドショット地点がお気に入りの場所だった。ところがその日に限って、なぜか6番のグリーンに足が向いたのである。予選ラウンドの二日目早朝とあって、彼の記憶によると50人前後の観客が所在なさそうに立っているだけだった。
「とりあえず2〜3組のプレーを見物したあと、7番のティグラウンドにでも移動して、連中の豪快なドライバーを見物しようと思っていた。その矢先のこと、いきなり目の前で途方もない出来事が連続して発生したのだ」
6番、159ヤード、パー3のホールに第一組がやって来たのが午前8時15分だった。中堅プロ、ダグ・ウィーバーの打順は2番目、7番アイアンで打たれた彼の美しい放物線が奇跡の発端となった。ボールはピン手前2メートルに落ちて小さく弾んだあと、吸い込まれる感じでカップに沈んだ。本人はむろんのこと、ギャラリーと一緒にシフォードも大喜び、6番に迷い込んだ幸運に感謝したほどである。
その興奮が冷め遣らぬ30分後、堅実なプレーで知られるマーク・ウェーブがやってくると、同じく7番で完璧なショットを放ち、またもやホールインワン! その25分後、こんどはジェリー・ペイトが高い弾道のショットを放って、これまたホールインワン!
地鳴りのような歓声につられて、いまやコース中のギャラリーが6番グリーンに集まり始めていた。そのころ、プレステントの中でも大騒ぎ。1日のうちに同一グリーンで3連続ホールインワン記録があったかどうか、記者たちはコンピュータの検索に追われ始めていた。と、そのとき彼方から再び津波のような大歓声が沸き起こった。
最終組の一つ前の組でプレーしていたニック・プライスもたま、7番アイアンを手にすると、やや抑え気味にヒットした。ボールはピンの右方向に飛び出してグリーンに着地すると、傾斜に沿って2メートルほど転がり、止まるかに見えた一瞬、最後のひと転がりでカップに消えた。わがす1時間50分のうちに4回のホールインワンとは、にわかに信じられない出来事である。
「2発目のときは膝が震えた。3発目では頭が真っ白になった。心臓に持病がある私にとって、これはあまりに刺激すぎる光景だった。誰かが大声で、一体どうなっているのだ! と叫んだが、同じ気持ちだった。3回も素晴らしいショーに遭遇して10分だというのに、4発目、ニック・プライスのボールがカップに吸い込まれた瞬間、これは白昼夢かと思い、自分の頬をつねってみたほどだ。もう、何が何やら周囲はお祭り騒ぎだった」
ジョージ・シフォードは最終組が通過したあと、常時携帯しているニトログリセリンを飲んだと語っている。そのころになると、オークヒル全体に4連続ホールインワンのニュースが広まって物情騒然。プレステントの中の記者たちも唖然とするばかり、今度はキーボードを叩くのに大忙しだった。
その日、偶然にもギャラリーの中にハーバード大学のジョセフ・ハリス教授がいた。彼の専門の統計学見地から興味深い数字を弾き出した。まず、ツアープメがラウンド中にホールインワンを出す確率は「三千七百八分の1」であり、全米オープンに限っていうと、過去にたった17しか出ていない。さらに、1日のうちに同一グリーンで4回のホールインワンが達成される確率は、驚くなかれ「一千八百九十兆分の一」だという。これは統計学的にみて「百九十年に1回」、あるかないかの天文学的奇跡であり、理論的には22世紀のある日、再び起こりうる可能性もあるが、何しろ気まぐれなゴルフのこと、定かな話ではないと教授は呟いた。
さて、ニトログリセリンの服用によって、ようやく落ち着きを取り戻したジョージ・シフォードを待ち受けていたのがテレビカメラである。グリーンサイドで見ていた唯一の役員として、彼は貴重な証人だった。ネクタイをしめ直し、髪をなでつけ、呼吸を整えてから、彼は息荒く言った。
「内緒の話、あれだけ簡単にホールインワンが出てしまうと、1オン・2パットの選手がアホに見えて気の毒だったよ」
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